ゲイ神学側からの主張: 「旧約聖書では宦官(性器を切除した男性)は神の前で主の集会に加わることが禁じられていましたが、新約聖書では、エチオピアの宦官は神の国に歓迎されています。それと同じように今は規則が変わり、同性愛者も恵みによって受け入れられるのです。」 この主張は正しいでしょうか。
ゲイ神学について
この理屈は福音と恵みの意味を誤解しています。福音は恵みによって確かにすべての人を受け入れます。男も女も、ユダヤ人もギリシャ人も、自由人も奴隷も、皆キリストにあって同じです。(ガラテヤ3:28) 同性愛者も人間としては同じですが、聖書はその行為を正当化する訳ではありません。宦官は宦官であったこと自体が罪ではありませんでしたが、同性愛者の行為は罪です。旧約聖書も新約聖書もどちらも罪としている性的行為、道徳的罪を肯定して受け入れて許すとは教えていません。かえって、その逆で、悔い改めることを求めています。以前は同性愛行為をしていましたが、今はその罪を捨てて、清められ、救われたというのが、福音と恵みなのです。Ⅰコリント6:9~11がその変化を表しています。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません・・・姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者・・・はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」
恵みとは、罪人を罪の中に置いたままにしません。その中から救い出すものです。以前は同性愛行為をしていた者を同性愛の罪から救い出し、洗い、聖なる者とし、義と認めて神の国に歓迎するのが福音です。