Q&A

ゲイ神学側からの主張: 「イエス・キリストは同性愛について一言も言っていません。そうであれば、クリスチャンも同じように問題にしないことがより「キリストらしい」と言えないでしょうか」 この主張は正しいでしょうか。

ゲイ神学について 

確かにイエス・キリストは男色とか男娼について何も言っていません。しかしまた、近親相姦や子どもの虐待について教えていないことも事実です。だからと言って、イエスはそれらを許すと言ってはいません。まずイエス・キリストは主にユダヤ人に対し語っていたので、旧約聖書の戒めを前提に、そして共通の理解があるものとして扱っていたので、あえて繰り返す必要はありませんでした。例えば、同性愛について直接教えませんでしたが、それを禁じる戒めのある、レビ記から引用されたので(レビ24:20、マタイ5:38)レビ記を神の言葉としていたと言えます。

また、同性婚については教えていなくても、結婚と離婚については教え、結婚の原点を強調されました。イエスの言葉です。「創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。」(マルコ10:6~8) ここでイエスは、人が男と女に造られて、男女の結婚が神の創造と意図された目的であることを強調しています。また、男女が一体になることも自然で、子孫を残すために必要であることも前提にしています。従って、直接同性愛に触れていなくても、(結婚は男女の絆であることを前提にしているので)禁じられた行為を正しいと宣言して、結婚の定義を変える解釈の余地はありません。

また、イエスは道徳的な律法について、緩やかにしたと言うよりは、より厳しく戒めたと言えます。マタイ5:21~28で、人殺しについては、実際に人を殺さなくても、心の中で憎むなら、人を殺したのと同様であると言われました。また、姦淫については、実際に行動に移さなくても、心の中で情欲を抱いたなら、姦淫を犯したのと同様であると言われました。このように、さらに厳しく基準を高くしたなら、モーセの律法が禁じる同性愛の罪を、厳しく、心の中で犯す罪としても注意したことでしょう。


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