第3条
私たちは、神が最初の人間であるアダムとエバをご自分のかたちに創造され、人として神の前で等しい 存在とし、男と女として区別されたことに同意する。
私たちは、神によって定められた男女間の違いによって、尊厳や価値において両者が等しい存在ではなくなるという考えを否定する。
解説
「神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」(創2:7)。
「神である【主】は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。神である【主】は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた」(創2:21~22)。
「神はご自分が造ったすべてのものをみられた。見よ、それは非常に良かった」(創1:31)。
男女の違いは、聖書の様々な箇所において説明されています。両者は、創造された方法も順番も異なります。さらに、結婚生活においても教会生活においても、両者の役割は異なります。役割の違いを、人の価値や尊厳の問題と混同してはなりません。その点についての誤解があると、聖書の教えを否定したり、聖書は時代遅れだと考えたり、間違った解釈を信じてしまったりします。
一例として、飛行機のパイロットと整備士のことを考えてみましょう。パイロットは立派な制服を着て、権威を持って乗客に語りかけます。一方整備士は、汚れた作業服を着て、誰も見ていない所で作業します。彼には、目立った権威も威厳もありません。では、どちらにより価値があると言えるでしょうか。答えは、価値は同じだということです。なぜなら、役割が違っていても、どちらも存在しなければ、飛行機は飛ばないからです。これと同じことが、男女関係についても言えます。神様は、家庭と教会におけるリーダーとして男性を任命されました。しかし、女性たちが果たす大切な役割がなければ、家庭生活も教会生活も成り立ちません。役割や特徴が違っていても、価値や尊厳に違いがないというのは、そういうことです。
この問題には、もう一つの側面があります。現代のジェンダーイデオロギーは、神が創造された男性と女性の区別を否定しようとします。そして、「男性らしさ」や「女性らしさ」は、「スペクトラム」(境界があいまいで連続しているもの)のようなものであると主張します。この考えに基づけば、人を「男性」、あるいは「女性」と決めつけることは、その人のユニークな人間性を否定し、価値がないものとして扱うことになります。しかし、聖書の観点に基づけば、私たちの人間性と価値は、神の「かたち」に創造された男性、あるいは女性であることの中に存在するのです(創1:26〜27参照)。
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