私たちの社会において、以前なら想像もできなかったような考え方、選択、そしてライフスタイルが急激に受け入れられ、採用され、推進されています。それは、どのようなことでしょうか。
例えば:
◇人々のジェンダー意識や性的指向は持って生まれた身体的性別に優先し、身体ではなく、本人が感じるジェンダーが本当のその人のアイデンティティーであるという考え。
◇人々は自分の持って生まれた身体に違和感があれば、たとえ未成年であっても、自由に「性転換」の手術やその手前のホルモン治療をする権利を持つべきであるという考え。
◇人々が性行為をしたければ、結婚の枠組みに縛られる必要はないし、異性の人とだけ性行為をすることにも縛られる必要はない。状況によっては、大人が子どもと性行為をすることも認められるべきであるという考え。
◇結婚は一人の男性と一人の女性の間だけのものではなく、同性の者同士でも許されるべきであり、2人以上のどのような男女の組み合わせでも「結婚」とみなすことも可能かもしれないという考え。
しかもこのような考え方やライフスタイルは「人権」であると主張され、それに同意しない人々は「人々の人間性を否定している」、「差別をしている」、「精神的虐待をしている」とまで批判されます。また、この考え方やライフスタイルに入る者は温かく迎えられますが、脱出しようとする人々は「裏切り者」として批判されます。しかも、脱出したい人々がカウンセリングを求めることも、彼らにカウンセリングを与えることも反対されます。上記の考え方はひと言で言えば「ジェンダー・イデオロギー」と言います。そして、ジェンダー・イデオロギーを信じる人々、それに近い考え方を持つ人々は、LGBTQの人たちの間にも、そうでない人々の間にも増えています。
聖書を神のことばであると信じるクリスチャンにとって、このような思想的、文化的流れをどう思ったら良いのでしょうか。また、このようなジェンダーの意識とライフスタイルはクリスチャンにふさわしいのでしょうか。自分を「クリスチャン」と呼んでいる一部の人々は、このような世の中の流れに完全に同意し、教会の始まりから2000年も受け継がれてきた聖書の解釈と性倫理を否定しています。一方、LGBTQの人たちが教会に来ることを嫌がり、ジェンダーや性の問題を無視したがるクリスチャンや教会もあります。他のクリスチャンたちは平和を保つことを優先し、「とにかく、お互い寛容でありましょう。受け入れ合いましょう」と呼びかけ、何が聖書的真理であるかという課題を避けます。さらに他のクリスチャンは聖書のジェンダーや性倫理や結婚についての教えを重視し、これが妥協してはならない基本的真理として受け止めます。それと同時に、ジェンダーや性の混乱で悩んでいる人々の人間性を尊重し、神の恵みに与る「隣人」として愛をもって関わっていくことを強調します。このような状況の中、多くの熱心なクリスチャンたちは混乱し、誰を信じたら良いのか、どんな見解を持つべきか、身近にいるLGBTQの人たちにどう接したら良いのか、で深く悩んでいます。
NBUSでは、上記の問題がこの数年間あまりに押し寄せて来ているため、危機感を持ち、様々な形で分かりやすく、信頼性のある情報を提供しようとしています。私たちが重視する聖書的視点に激しく反対する人々もいますし、このところ多くの批判や攻撃を受けていますが、神に頼りながら、愛をもって真理を語る努力を続けようとしています。この働きのための皆様の祈りと支援に心から感謝します。