Q&A

ゲイ神学側からの主張: 「聖書時代と今は違います。聖書の時代では同性愛は貪欲と情欲の表現で制約のない無差別の乱交でした。しかし、今日では同性愛の正しい表現を発見しています。当時は性的指向の理解もなく、一人が一人と愛し合って一生忠実を守る同性愛関係はありませんでした。パウロが禁じているのは乱交であって、現在の健全な同性愛関係を禁じているのではありません。」 この主張をどう考えれば良いのでしょうか。

ゲイ神学について 

さて、本当にそうでしょうか。「一人が一人と愛し合って一生忠実を守る」と一見良いものに聞こえますが、聖書は、同性愛に条件をつけていません。ある特定の同性愛関係をよしとして、それ以外のものを禁じているような事はどこにも出てきません。同性愛行為全般を禁じています。愛があるとか無いとか、忠実忠誠?を守るとか守らないとか、条件をつけて例外にしていません。聖書は男女間の「自然の用」を肯定して、それ以外のものは「不自然」(ローマ1:26~27)とされています。姦淫の罪も同じことが言えます。愛し合っていれば姦淫は許されるということはないのです。

また、新約聖書時代は今の時代と実は変わりなく同じです。古代ギリシャとローマの時代にも愛し合う同性愛関係は存在していました。プラトン著作「饗宴」(紀元前375年)の中には異性愛と同性愛関係について書かれています。皇帝ネロはパウロと同時代でしたが、二人の男性と結婚しました。当時も一生の同性愛パートナー関係は、決して珍しいものではありませんでした。古代の同性愛についての資料をまとめた本「ギリシャとローマにおける同性愛」(Homosexuality in Greece and Rome)の著者トマス・ハバード氏は結論として、今日に見る同性愛の様々な形は、全て古代にも存在していた、と言われます。

さらに、同性愛歴史学者ルイ・クロムトン氏(自身もノンクリスチャン同性愛者)は「同性愛と文明」(Homosexuality and Civilization)という巨大な研究著作の中で、聖書とパウロの書簡を客観的に見て、パウロも当時のユダヤ人著者も同性愛については厳しい立場をとり、例外なく禁じている、と述べています。

従って、パウロの時代も今の時代も同じで、近代の「正しい同性愛関係の発見」とは、事実に基づいていません。


関連記事